人民新聞社によるハラスメント事件について

私が何度か記事を書かせていただいた人民新聞内で所属する記者に対するハラスメントが行われ、被害者の村上薫さん(※宝島社を相手取っての訴訟の原告でもある)が今回訴えを起こすこととなった
他の人も FacebookTwitter 上でこの件についての言及をはじめており、私自身、人民新聞と関わりを持つ者であるため、今回の件は到底看過出来ないと考え、可能な限り被害当事者と連帯していくつもりである。
このブログに書かれている事件の概要で触れられている話し合いの場に私も 2 度参加したが、3 月 4 日の話し合いの席上で、それまでは事実関係には齟齬はないと加害を認めていたにもかかわらず、人民新聞側が被害者である村上さんの話には嘘や言い落としが多く、人民新聞にとっては迷惑なデマを拡散されている、と急に言い出し、場が 2 次加害的なものとなった。私がその際に被害者の証言の不正確性をねちねち指摘して揚げ足を取るやり方は日本軍性奴隷制度の被害者の証言を無効化するために歴史修正主義者がやる手口と同じではないかと指摘したが、人民新聞側は言われたことの意味が全く理解出来ない様子だった。
運動内部でのさまざまなハラスメントの横行は事情を知る者の間ではよく知られたことで、被害者が運動から離れていくことを余儀なくされる一方で、加害者が運動現場に居座り、運動内部で権力を獲得していくことはよくある。運動の現場での差別やハラスメント、運動内暴力を告発し、問題化していくことはそれ自体が運動を停滞させるものとして否定的に捉えられることが往々にしてあり、閉鎖的な空間のなかで加害行為の悪質な隠蔽や 2 次加害が行われることも多い。しかし、それでは運動体自体が内部に抱えている歪んだ権力関係や差別問題及びハラスメントへの認識不足が問われることなく、いつまでも同種の加害が拡大再生産される他はない。
本来、運動体内でのトラブルは運動体自体を更新していく機会と捉えられるべきなのであり、そうでなければ運動体自体が組織防衛のみを目的とした閉じられたものと堕してしまう。組織維持が自己目的化した運動体は本質的にいって既存の秩序を改変することよりも内部での異質分子を取り締まり、セクト主義的に運動を私物化する方向に向かわざるを得ないのであって、決して戦争機械にはなり得ず、国家暴力装置の補完物に成り下がるのである。我々はそのような腐敗した運動体が法の支配のもとへの服従を誓い、権力側と妥協したりする反面、陰湿な暴力を運動現場で行使したり、組織内での粛清を実行したり、行政なり、大学当局なり、企業の経営陣と馴れ合ったり、あるいは運動現場を組織拡大のための食い物にしてきた歴史を知っているはずである。
今回の案件について私が気がかりにしている点が 2 つあって、まず 1 つめは人民新聞側にセックスワーカーという職業に対する偏見があったのではないのか、ということである。運動圏においては、実際のセックスワーカーの置かれた状況を何ら知ろうともせずに、藤田孝典や森田成也(※この人物はトランスヘイターとしても悪名高い)らの性産業廃止の主張に安易に同調してしまう者が散見される。職場環境の劣悪さを性産業廃止の理由に挙げる者はよくいるが、ならば労働環境の改善が目指されて然るべきにもかかわらずことさら当事者を置き去りにした形で性産業が焦点化されてしまうのは性的な関係というものはパートナー同士で営まれるべき、というロマンチックイデオロギーと結びついた、あるいは抑圧的な性道徳と結合した価値観が背後にあるからではないかと私は疑っている。既存の左翼のなかにセックスワーク差別に往々にして加担してしまう者が続々と出てくるのは、性的な事柄には慎み深くあるべき、という家父長制的な考えを内面化しているからではないのかとも考えられる。性の抑圧は支配者の統治の手法の 1 つとして欠かせないものであり、人間が生育過程で受ける馴化のための手段の 1 つでもある。そこをきちんと批判できないということとミクロな次元での支配・被支配の関係性に鈍感であることは決して無関係ではあるまい。
もう 1 つは人民新聞側が被害者である村上薫さんを教え導き、面倒を見てやる相手として見なしていた、つまり対等な仲間としては見なしていなかったのではということである。今回の事案に関しては被害者の生活状況を考慮することなく、ただ弾圧のリスクがあるから仕事を辞めろ、といったのがそもそもの事の発端であるが、他人の生活に関わる事柄に干渉して、当該の意志を左右できるという考え方は非常にパターナリスムなものである。毒親が子どもに対してやるようなことを人民新聞の関係者は村上さんに対して行っているのである。前述の通り、セックスワーカーへの偏見が疑われるが、それだけではなく、そもそも社内において歪んだ権力関係が存在していて、そのことが私的な領域への侵入のハードルを下げていたのではないのか?という点を私は問いたくもなる。
昨今、気候変動、COVID-19、ロシアによるウクライナ侵略と続く形で、時代は揺れ動いている。「大きな物語」が改めて求められる局面が到来しているともいえるが、だからこそ我々は取り組むべき課題に政治主義的に優劣を付けていく既存左翼のこれまでの傾向を断固として拒否し、今こそ運動内部でのミクロファシズムを警戒しなければならない。

Les organisations de gauche ne sont pas les dernières à secréter leurs micro-fascismes.
「左翼の諸組織においてはミクロファシズムが最も滲み出にくいなどということはない」
                           ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』より

https://nubatamano2.wixsite.com/website

書評『未来への大分岐』

書評『未来への大分岐』

人民新聞1月25号に掲載された私の記事を若干修正して2020年度吉田寮入寮パンフに掲載したもの
 
 第一部のハートと斉藤の対談では、政府の政策ではなく社会運動が重要という観点が示され、インタビューと同様に斉藤は日本の運動の政治主義化を批判する。同感だが、日本では運動で資本・国家を規制できなかったので政治主義に陥るという斉藤の認識には疑問を感じる。戦後の左翼運動の成果があまり省みられておらず、2・1 ゼネスト前後にかけての戦後革命、総評労働運動、60 年安保闘争、68 年闘争が言及されていない。戦争と植民地主義への日本の加担を阻止できてきてないとしても 9 条改憲辺野古新基地建設が未だ阻止されていること、三里塚闘争や上関原発阻止闘争などがずっと闘われてきたことも無視できないはずである。大衆運動の成果を軽視する斉藤の視線こそが大衆への不信に根差した政治主義を生むのではないのか。インタビューで斉藤は「代表制のなかでこぼれ落ちている声をすくい上げること=社会運動」と述べる。では、これまでの社会運動を上から目線で論じるよりも運動現場との協同で戦後の左翼運動の丁寧な総括とその蓄積の継承に斉藤は取り組むべきではないのか。
 また、対談では「コモン」を作り、人民に必要な物質的な財の共有化を運動で実現していく方向性が提示される。民営化による資本の所有の抑制が人民の生存に不可欠なのは確かだが、市場の廃絶は語られない。斉藤はインタビューで「市場は当分なくならないでしょう」と語るが、価値法則が公共財の商品化をもたらす以上は価値法則の廃絶を俎上に乗せずに資本の論理に抵抗することは不可能なはずである。さらに、私有財産権が国家の暴力装置による物理的な力を後ろ盾として法で保障されている現実を鑑みると、人民の共有財産を確保する運動は必然的に国家権力との垂直的対決を招来するし、人民が物理的な力を獲得し、武装することが不可避となるが、この点を見据えた議論は見られない。また斉藤はインタビューで気候対策を考えると国家は必要と述べるが、国家権力が資本を支える暴力を提供し、資本の論理が気候変動の背景にあることを考えると矛盾してはいないか。
 さらに、両者は水平型の運動の限界に言及し、運動現場での中央集権制と組織化の混同を批判しているが、運動における組織論は誰がどこで何を実践していくのかということと切り離しては論じられないはずである。運動の形態、運動体のあり方は実践する主体が実践とそれがなされる場所及び実践を通して働きかける対象との相互関係のなかで弁証法的に掴み取っていくものであり、客観的に望ましい運動形態など存在しないのである。
 第二部のガブリエルと斉藤の対談では価値相対主義の蔓延が歴史修正主義に力を与え、民主主義や人権概念を脅かしているという認識が共有される。ガブリエルはポストモダン思想が権力に利用されていることを述べ、普遍的な倫理を基礎付けるヒューマニズム復権を説く。斉藤も同様のことをインタビューで語るが、果たして問うべきは普遍的なものを疑わせる思想なのか?いかなる立場の思想であれ政治的に全く中立であることなどあり得ず、むしろ問うべきは政治とイデオロギーの関係性ではないのかと感じる。また、ガブリエルはエリート主義に基づ
いた、AI を利用できるテクノクラートによる独裁が近未来に出現し、哲学が排除され、倫理が失われる危険を語り、哲学者が倫理を司るべきだと語るが、これはAI を操れるテクノクラートによる独裁とはまた別の哲学者による独裁を実現せよ、というもう一つのエリート主義であり、この点に斉藤、ガブリエル共に自覚的でないのが気になる。
 第三部ではメイソンと斉藤が情報テクノロジーについて語る。メイソンは技術の進歩が生産コストを引き下げ、資本の利潤の源泉を喪失させると予測する。しかし市場が存在し、賃労働関係が存続している以上、利潤の低下は労働強化と賃金の抑制につながるのは間違いないが、この点はあまり深刻に議論されずインタビューでも斉藤が楽観的なのは気になる。AI などのテクノロジーの進展が未来社会における社会主義を可能にするという日本共産党の近年の主張と同様であり、小ブル主義的な技術信仰、左派加速主義的な側面をメイソンには感じてならない。
最後に本書について一言述べると、資本主義、テクノロジーそしてヒューマニズムという万人に関わるテーマを扱っているにも関わらず本書のカバーの通り「帝国主義国家の男性(に見える人)」のみで対談が構成されているのには違和感を禁じ得ない。

革命的医療崩壊主義という戦略

革命的医療崩壊主義という戦略
ここ最近の感染症危機のさなか、SNS やインターネット上には医療労働者の皆さんに感謝しましょう、出来る限りの支援をしていきましょう、という投稿が非常に増えてきた、という印象を受けることがよくある。今この危機の最中にあって、わたしたちの共通の敵である、あのウイルスと最前線で戦い
平和を守ろうとしてくれている医療労働者の皆さんを銃後から私たちは感謝し、応援しましょう、というのがこの種の言説の趣旨だが、はっきり言わせていただくと、書き込みをしている当人の自意識とは無関係にこのようなものは例のウイルスに伴う感染症危機が生じた構造的要因を覆い隠し、対感染症での結束の名の下に階級対立、さまざまな差別の存在を後景化させてしまうものだろう。
まず、今現在進行中の出来事を、新種のウイルスの脅威に対して人間が戦いを挑んでいる、という構
図で捉えるのはまったく没階級的な視点であり、市場と国家を問うことは出来ないだろう。そもそもウイルスなどというのは自然界にはさまざまに存在するものであり、それ自体が善とか悪とかいうものではないのである。ただ、人間の側にとって、今現在人間が営んでいる社会にとり、都合が悪いものであるから、ウイルスが問題となるだけなのである。したがって、ウイルスを蔓延しやすい条件を構築してきた社会を問う観点が必要となってくる。
今回の感染症がここまで拡大してきたことの背後には、グローバル資本主義の到来と共に人と物の移
動がかつてないほどの速度と強度で行われるようになったこと、市場原理が従来までは公益性が優先
されていた領域にまで浸透したため医療機関が患者の検査・治療よりも経営を重視するようになったこと、生産性向上のためにさまざまな地域・階層・属性の人間が自身の労働力をますます市場で売らねばならなくなったこと、感染を避けるために自宅で静養しようにもそれが出来ないほどに窮乏した労働者が従来に比しても非常に大きく増加していること、などが考えられる。それは日本でもこの 80年代の中曽根内閣時代に端を発する新自由主義政策、その背景にある市場原理に基づいて国家を運営していかなければならなくなった資本主義の行き詰まりの現状がもたらしたものだ。したがって、単に医療現場で働く労働者が自分たちの職能を発揮すれば事態が良くなるものではまったくないのだ。医療労働者の献身に感謝しようなどというのは、裏を返せば長年にわたる市場原理とそれの影響下にある国家の政策の責任を問わずに医療現場に責任を転嫁する類の言説でしかないのだ。
感染症が流行するなかでも経済的理由でマスクも消毒液を入手することが出来ない人たち。仕事を休もうにも雇用保険に入れず、有給休暇も取れず、明日の生活が立ち行かなくなることを恐れて休めない非正規労働者。住む家もなくそもそも自宅で静養できない人たち。そして公的な社会保障の枠組みの外に置かれている在日外国人たち。そこには明確に階級の問題、被抑圧人民の問題が厳と存在している。ウイルスと人間の戦いなどという図式が立てられるとき、このような問題は往々にして不可視化される。もちろん、階級・階層・属性に関わらず誰でも感染するリスクはある。しかし、感染症対策だけに集中し、仮に発症しても治療のことだけを考えておけばよい人間ばかりではないこと、むしろ件のウイルスが自らの生存を脅かすリスク要因の一つでしかないような環境におかれた人間の方が多い、という現実はブルジョワメディアからは十分には伝わってこないのだ。
すでにさまざまな報道でも明らかになっているように病院内部で医療労働者が感染して、それがさらなる感染症拡大につながっているケースは多々あると思われる。医療現場では周知の通り、医療のための十分な設備・物資が不足しているのだが、医療労働者自身が劣悪な労働環境で感染の危険にさらされているのが現状だ。そのことにもかかわらず、きちんとした待遇・職場環境の改善もなく、医療労働者の更なる奮闘に期待しようなどというのは、現場労働者の搾取の強化に他ならないだろう。
周知の通り、危機に伴う人々への生活・休業補償の遅さをめぐって安倍政権に対しては SNS やインターネット上で不満や不信が非常にさまざまに噴出している。今の政権が推進しようとしている現金給付案などではとても追いつかない、という意見が多いし、それはその通りだ。日本国内に居住しているにもかかわらず現金給付の対象から外される人間、現金 10 万程度では 1 月も持たないくらいに困窮している人々が多数いる反面、ほんのちょっとした小遣い程度にも思えないくらい余裕のある暮らしをしている人間もまたいるのがこの社会の現実なのだ。しかしブルジョワ的諸権利とは元々そのようなものであり、民衆の下からの運動、事と次第によっては暴力革命の可能性を感じさせるほどの蜂起がなければ支配層は民衆に対して譲歩する必要性は基本的にはないのだ。そこで私が考えるのは革命的医療崩壊主義という戦略の可能性である。
今、さまざまな媒体を通して検査体制の充実が求められ、医療機関の受け入れ態勢の拡充が求められている。この状況で全国の医療従事者が一斉に①医療労働者の待遇及び保障の大幅な充実②医療機関の受け入れ態勢及び検査体制の大幅な拡充③医療費の無償化④各種社会保険及び介護の無償化⑤水光熱費の無償化⑥家賃の無償化⑦通信料金の無償化⑧奨学金、キャッシングの支払い免除⑨毎月単位で国内に住むすべての人間に必要分の現金を給付、などを財源を富裕な個人や資本からの税で出させる形で実施するように要求して、ストライキを予告すればどうなるだろうか?医療崩壊の現実性をストライキによって一気に突きつけるのだ。今もし全国の病院の機能の多くが停まるような事態が現実味を帯びてきたとしたら、それは現政府にとっては、さすがに放置できないことであり、要求項目の相当部分を呑まざるを得ないのではないのだろうか。さらにこれにいわゆる宅配・運送業や小売業などエッシャルワーカーと呼ばれる各種の人々の生活や健康と関わりの職に就いている労働者が連帯してストライキを予告すればどうなるだろうか?事の成り行き次第では革命前夜とも言える情勢が生まれるだろうし、現実の革命にはすぐに至らなくても市場と国家を抑制する新たな方向性が見えてくるだろう。
その点を踏まえると、今回の感染症危機によって露呈した現代の矛盾に対して医療労働者がこれと根源的に対決しようと言うのであれば、それは決して不十分極まりない環境のもとで自分自身を危険にさらしながら医療行為に励んで、一部の人達の期待に応えてウイルスと戦う「兵士」としての任務を全うするのではなく、ストライキの組織によって階級闘争を戦うことだろう、と言えるのである。問題は、では、今先述したような形でのストライキが起こせるだけの蓄積があるか、であるが。

予見される将来における「挙国一致」体制を見据えて考えておきたいこと

 感染症危機に伴う緊急事態宣言が発令されてから、10 日間のうちに宣言の対象地域が全国に及ぶこととなった。新型インフルエンザ予防法の改定からおよそ 1 月が経つが、Twitter などの SNS でも、ニュースでも緊急事態宣言を出すことを求める言説、今は危機なのでやむを得ないという雰囲気が急
速に広がってきたなかでの対象地域拡大である。この間、立憲民主党などの野党や医師会なども現政権に宣言発令を求めてきたことと併せて考えると、感染症対策のためであれば政府の強権発動は仕方ない、いやむしろ積極的に行うべきである、という声がこの国の至る所で日増しに高まってきているのは間違いないだろう。安倍政権は緊急事態条項を憲法に盛り込むことに意欲的な姿勢を見せており各種報道による誘導もあって、世論もそれを望む出してきている。こうした今の状況をどう考えるか?
 安倍政権発足前に自民党がまとめた改憲案を見ると、緊急事態条項の内容は①緊急事態の期限自体は 100 日だが、国会の承認さえあれば何度でも延長できる②緊急事態発令下では衆参両院の国政選挙を行わなくてもよい③法と同等の効力を有する政令を内閣が定めることができる④緊急時の必要を鑑みて個人の権利を制限できる、とあり、④の個人の私権制限は恣意的な解釈がしやすい書き方になっており、一部ではすでに緊急事態条項を憲法に加えることが独裁の道を開く危険がある、という警告がなされてきた。いよいよこの事態に際して緊急事態条項を糸口にした独裁の現実性が見えてきたのと言えるのである。
 左派のなかでは安倍政権の改憲への動きへの警戒感は依然として根強く、左派でさえも大多数が現政権に緊急事態条項を設けるための改憲を求めるには至ってはいない。だが、感染症の患者が今後も増加を続け、人々の不安が高まり続けば、各種報道の影響下で個人の外出や移動、集合、商店などの営業を強制力をもってやめさせられない今の日本の法体系に対しての批判と緊急事態条項設立への要求は急速に高まることも予測される。そもそも近代のブルジョワ国家においては軍隊と例外状態における主権の行使に関する規定が存在するのが一般的であり、日本国憲法のように軍の規定も例外状態における措置に関する規定もない憲法というのは非常に特殊なのである。したがって危機に際して緊急事態条項の必要性を説く言説があふれてくるのはいわば当然のことなのである。
 この国では、戦後革命、総評労働運動、60 年安保闘争、68 年闘争に見られるような下からの運動が一定の影響力を有していたので歴代の政権はうかつに改憲に踏み切れなかったが、支配層からすればこれは本来であれば到底許容しがたいことなのである。ゆえに、非常時における政府の強権発動を否定する立場は唯一つ、国家の廃絶を目標とした革命を対置させ、例外状態における主権の行使を時の政府ではなく、革命派が行う、これのみなのである。その立場と一体でこそ軍の規定も例外状態の規定もないブルジョワ国家の憲法としては重大な瑕疵のある現行憲法の改定を阻止することの論理的一貫性が保たれるのである。その意味では今の情勢は構造的には時の政府と革命派のどちらが例外状態におけるヘゲモニーを握るかの、という攻防なのだ。ところが、現在の日本の左派ではボルシェヴィズムが影響力をめっきり低下させており、アナキズムも運動としては十分に組織化されていないこともあり、左派の多くは改良主義的である。国家の廃止を目標としない、革命を目指さない改良主義の立場では既存の国家に対する責任を左派の側も負うことを求められるので、政策論争の土俵に乗らざるを得ない。そうなるとブルジョワ国家の論理を左派も受け入れざるをえなくなる。したがって、今の日本の左派が緊急事態条項の追加のための改憲を阻止する運動を理論的・実践的に組織できるかというと、相当に厳しいのではないのかと考えている。まして、一連の自粛ムードの広がりのなかで社会運動自体が集会やデモ、イベントなどを次々に中止している状況下では。
 もっとも今の安倍政権が世論を上手く誘導しながら改憲を果たせるかというと、これもなかなか厳しい面があるのは確かだ。なぜなら、①感染症対策への不満や批判が Twitter などの SNS を見れば分かるように噴出している②森友、加計、桜を見る会にまつわる醜聞がかなり人口に膾炙している③大衆受けを狙ったポピュリストとしての資質が安倍にはあまりない、少なくとも小泉純一郎橋下徹桜井誠、立花孝志のような分かりやすく敵を設定して人々を扇動するセンスを持ち合わせていない④感染症に伴う景気の急速な冷え込みが来るのは間違いなく恐慌も十分にありうるが、件のアベノミクス以上のことはやれそうにもない、を考慮すると、「挙国一致」ムードを演出しながら改憲にこぎつけるのは安倍政権には意外と難しいかもしれない。 
 加えて、昨年の天皇代替わりによって徳仁天皇に即位したが、明仁と異なり、徳仁天皇を中心とした国民統合の要として振舞う技術を明仁ほどには備えていないと思われるというのもある。明仁の場合は 3・11 の直後にビデオメッセージを出すなどして自身の即位以後に美智子と共に形成してきた「民主的で平和的な」天皇像を巧みに演出したが徳仁が同じようなことをするのは経験からしても厳しいだろう。したがって、左派が原則的でかつ巧みに運動を展開できれば改憲をめぐる攻防のヘゲモニーを向こうに渡さないことに成功する見込みはないわけではなく、情勢がますます危機的となるときに時と場合によっては大衆運動の高揚と共に反撃の余地もあるだろう。
 むしろ私が考える左派にとっての最悪のシナリオは山本太郎とれいわ新選組が現政権のオルタナティブとして急速に支持を集めた上で「挙国一致」政権の要となる場合である。具体的には次のようなシナリオである。
 ①感染症が拡大を続け、医療体制の不備が露呈し、終息の兆しも見えないなかで、人々の不安と混乱がますます広がり、世論の矛先を患者個人やその個人が属する集団に向ける動きが各種媒体でなされ、それが個人の行動の規制を求める世論形成につながる
 ②十分な生活補償及び休業補償がないなかで景気が急速に悪化し、恐慌が到来する。それによって失業と貧困が急速に広がり、感染症対策と経済危機の打開のための強い政府を待望する世論が急速に形成され、「挙国一致」政権を求める声が各方面から出てくる
 ③東京オリンピックが結局中止に追い込まれ、中止の責任及び感染症対策及び経済恐慌への対応への世論の批判の高まりから安倍政権の命脈が尽きる
 ④衆議院選挙が行われ、自民・公明の与党は惨敗し、どの政党も過半数を取れない状況となる。最も注目を集めたのが山本太郎のれいわ新選組MMT 理論に基づいた経済政策による失業と貧困からの人々の救済を訴えることである種の救世主的存在となる
⑤選挙後、政局の安定と感染症対策及び経済危機打開のための「挙国一致」内閣作りが協議され、山本太郎を首班とする形で自民党から共産党までの既成政党すべてが参加する政権が樹立される
⑥人々の生活の再建のための空前の財政出動が山本内閣によって実施され、それと併せて緊急事態条項追加のための改憲も行われる
山本太郎が間違いなく安倍晋三よりもポピュリストとしての資質を備えていること、またこの人物が天皇主義者であると同時に大きな政府を志向していること、一時期は小沢一郎のような保守政治家とも近づけば、日共にも近づくという政治的動きを見せてきたこと、そして日共が野党共闘による政権参加を目指すなかで街頭での大衆行動よりも天皇制・自衛隊・米日安保体制を事実上容認し、現政権の補完勢力化していることを鑑みると、安倍政権が崩壊したときに自民党公明党が与党にとどまるために手を組もうとすることはあり得る、というのがこのシナリオの前提である。
 以上のシナリオが現実となったときに果たして既成の日本の左派は原則的な立場からの抵抗運動を作れるだろうか?先述したように今の左派の多くが改良主義化していること、反緊縮・リフレ理論が左派界隈で注目されていること、近年の社会運動自体に国民運動への志向が見られること、今の上皇明仁を安倍政権への重石として期待するような言説が左派の間でも流行していること、気候変動をめぐる議論に見られるように国家による市場への介入を現状の打開策として期待する向きがあること、などを踏まえると私が今ざっと素描したようなシナリオが現実化したときには左派運動はさまざまに分断され、原則的な立場から街頭で闘おうとする左派は極少数派になるのではないのかと考えられる。
 ここまで述べてきたことを踏まえて見ると、今の日本のラディカルであることを目指す左派が直面する課題は危機の最中で政府の権限強化と社会主義的な政策を政権側が組み合わせてきたときにどうこれを理論的に論駁し、運動の四分五裂を回避しながら大衆を獲得していけるのか、ということである。この種の議論は第一次世界大戦当時のレーニンがカウツキーら、彼が社会帝国主義者・社会排外主義者と呼ぶところの潮流、あるいはワイマール共和国が崩壊する過程でのドイツ共産党が直面した問題とも通じる所だが、当時のレーニントロツキーの論をそのまま今反復しても現実の武器にはならないだろう。なぜなら議論の文脈となる時代がそもそも違うだけでなく、ロシアのボルシェヴィズムがもたらしたものは、今日的に見ると、社会主義建設というよりも、国家独占資本主義の一種であり、国家と市場の廃絶には至ることはなかった、という歴史的現実は否定できないからだ。
 したがって、緊急事態条項発令を含めた強権発動による監視や弾圧が近い将来に起きたときに備えるには、運動の実践に関しては地下党建設の研究などが求められてくるが、地下に潜るにしても何をするにしてもそもそも労働者階級・被抑圧人民の生存と解放が国家と非和解であり、ラディカルな思想に基づいた運動の実践、革命が必要だという主張の基盤となる理論の構築が伴わなければどうにもならないだろう。現代における知見を可能なかぎり盛り込んだ国家論、革命論、党組織・運動論の構築が不可欠であり、現代における『国家と革命』、『何をなすべきか』を従来の理論と運動の総括の上で提出しなければならないのだ。一時的に社会運動が完全に後景に退かされても、現実に抗する理論的基盤を持つ運動の核さえあれば、この国が経済政策で完全に打つ手がなくなり、国家破産的な事態が来たときに革命派がヘゲモニーを握る可能性も出てくるだろう。今は長期的にかつ俯瞰的に現状及び情勢を分析したうえで闘いの基礎を作るときでもある。

感染症危機を内乱に転化せよ!が今こそ左翼のスローガンとなって良いのではないのか?

 今や知らぬ者を見つけるのが至難の業であるほど件のウイルスに伴感染症による被害とその脅威をめぐる話題は人口に膾炙しているTwitterを開いても、ニュースを見てもこの話に必ず触れる日々である。今回の感染症をめぐる一連の混乱のなかで安倍政権が全力で進めてきたかの東京五輪もついに一年延期にせざるをえなかった。もとより現在の日本では、五輪を開催して日本中で夢を見よう、などという時代錯誤も甚だしいことをやる余裕などどこにもないのだが。ちなみに夏季五輪が延期になったのは史上初めてのことで、過去に両大戦時に夏季五輪自体が中止になった例を除くと、夏の五輪の開催が何かの出来事のために予定通りに出来なくなるというのはそうそうないことである。

 多くの人が知るように、今の日本では感染症のために予定されていたイベント、行事、集会などが次々に中止または延期されて、仕事が休業となる所も続出している。安倍政権は今回の事態を鑑みて、先月に全国の学校の休校措置を要請し、さらに政府の強権発動を可能にする緊急事態宣言が出せるようにと法改悪を国会に上程し、あまりきちんと審議されないまま大政翼賛的にこれが可決された。1月に自民党伊吹文明が危機を乗り切るためにはやはり憲法に緊急事態条項が必要などと発言したことがあったが、現在の安倍政権の方向性はまさにその道へと向かっている。一連の自体の中でイベントなどを自粛する動きが相次いでいたが、そこから更に政府が法的な権限を活用して住民の生活を管理・統制する方向へと向かいだしたの
は間違いない。すでに入管制度を強引に活用しての入国制限が開始されており、今月に入ってからは韓国・中国からの入国制限も開始されている。東京都が先日都民への外出自粛を求めたが、この動きは他にも拡大しそうで、今後の感染症成り行き次第では首都封鎖もあり得るとのことである。日本以外の国でも類似の状況に陥っている国は多く、各々詳しくは知らないがより強権的な形で人々の外出や移動を罰則規定を設ける形で制限・禁止している国家も珍しくはないという。今回の感染症危機は昨年末に中国・武漢市での原因不明の肺炎が報告されて以来、またたくまに世界的な混乱を引き起こしている。私は医学的知識が甚だ不足しているので、なぜここまでこの感染症が拡大したのかは正確には分からないが、グローバル化
伴い、従来とは比較にならないレベルの速度と強度で人間が多様に移動し、物流ももはや世界レベルで連関している、いわば世界全体が過去と比べて、例えば100年、200年前に比してはるかに小さくなったことが感染拡大の背景にあるのは間違いないだろう。いわば、グローバル経済の矛盾の現れである。

 また、今現在の日本の状況についていえば、感染者は他国と比較してそう多くないなどと見る向きもあるが、それは単に検査を受けている人の割合が低いためであり、また今の日本では労働者の過半が正規雇用と比べて身分保障が著しく不安定な非正規雇用が占めているため、体調を崩しても仕事を休めない、病院に行くのも経済事情を考えると控えざるを得ない人が多いために感染者の拡大は実情に比して顕在化していないと考えられる。この20年以上の新自由主義経済がもたらした悲惨な雇用状況こそが重大な感染拡大要因であると考えてもよいのではないのか。

 こうした状況の中で安倍政権の感染症対策の排劣さと危機に乗じて改憲への匂いをもうかがわせる緊急事態宣言発動の画策に対して左派の間では危機感が高まってきている。ここで考えなければならないのは、政府に感染症対策の推進を求めること自体が長期的に見て社会の管理化及び住民を統治・監視するためのテクノロジーの向上に加担する危険性が大であるということである。本来、病気への対処は個人の主体性のもとに行われるべきであり、必要なのは望む個人が薬品を入手したり、医療機関を受診することなどが問題なくできることであり、今現在世界で起きている公権力が個人の健康管理にまで介入してくるような措置はその制限を踏み越えたものであり、必然的に個々人の統制・管理を強化する。また感染症の拡大自体
も希望しても検査も受けられず、体調が悪くても仕事も休めない人間が多くいるなかでは、人々の集まり、外出や移動を制限しても大きな効果があるとは思えず、単に公権力の私的空間への干渉拡大につながるだけではないのだろうか。

 今回の感染症の拡大への対応を「戦争」と表現する向きが各方面で見られるが、第二次世界大戦以後初めて、夏の五輪の開催予定を変更に追いやり、短期間で世界各国に自国の法律・制度及び感染症策に活用できる官民の人的・物的資源を最大限の速度と強度で総動員することを強要している今回の危機は見方を変えれば世界大戦的であると言える。ウイルスの感染拡大を防ぐことが戦争目的であるとすれば、ウイルスの感染経路となる空間・建物・物品、そして人間の身体は戦場と同じになる。その結果、感染症に羅患した人間の身体は一個人の主体とは切り離された対象とみなされ、個人の身体に加えられる規律型権力と人口を対象とする生権力とが対感染症結合する。感染症対策は個人の健康のためではなく、類としての健
のためになされていく。安倍政権の進める緊急事態宣言発動の動きは危機から生まれる例外状態での政治権力の作用の観点から注視しなければならないが、感染症対策それ自体に権力性が大いにあることを忘れてはならぬだろう。件のウイルスはこれへの対策に忙殺される各国政府にとっては敢えて喩えさせていただくと一般の人間とは比較にならないほどの隠密性と速度で至る所へと侵入できる「テロリスト」のようなものであり、その意味では2001年以降のいわゆる対テロ戦争で活用・向上を図られてきた人間や空間を監視・管理するための技術が大幅なアップデートを要求されているようなものである。米国のトランプが9・11以来の国家非常事態宣言を出したのはそのことの一つの象徴であろう。世間の一部では今回のウイルスを生物
兵器云々という何ら信憑性のないデマが流布されているが、このようなデマが流れること自体感染症とテロがある種の同一カテゴリーの中で捉えられていることの証左であるといえる。今の世界各国の政府は感染症対策のなかで自国社会の中の規律型権力と生権力をどれだけの速度と強度で総動員し、向上できるかの世界大会をやっているようなものなのである。

 したがって、単に安倍政権が目論んでいるであろう緊急事態宣言の発動→改憲への流れを別にしても(※もちろん、それ自体は軽視はできない)、今起きている状況への対処を経験した行政機関・企業などがその経験とそこで得られた技術を住民、労働者の管理のために活用し、ひいては社会運動を可能とする空間や人の集まりを解体し、ないし生成させぬようにしていくことは十分に考えられることなのである。したがって安倍政権に対して感染症への対策と検査・管理体制の強化を社会運動の側から要求するのは実質的に見て政府が進める緊急事態宣言→改憲への動きと同一方向になる可能性が危惧されるのである。ましてや今の状況を見てむざむざと集会などを中止して、自粛の動きに合わせている運動体が少なからずあること
ど論外という他はない。

 では、今回の事態のなかで運動側はどのような論の立て方をしていくべきなのだろうか?まず原則として、人民の生存と国家・資本の存在は非和解であるという前提を押さえた上で、安倍政権、政府が人々の生活を脅かすものであることを大衆にとって明瞭にするためにその施策のまずさを暴露していくことは重要である。ただし、解決策をより良い政府の施策に求めていくのではなく、下からの運動を組織していく方向を取る必要がある。そもそも今政府に期待しても何を得られるであろうか?私自身が先述したとおり医学的知識を欠いているので、素人考えとなるが、まず今必要なこととしては、①医学的見地からの正確な情報を誰もが入手できるようにする②体調が思わしくなく、気になる人がすぐ検査にいけるように経済的その
他の補償をする③検査体制の拡充と共に医療労働者の環境及び医療設備を大幅に改善していく④新薬の開発を支援する、などが挙げられよう。しかし、これらの施策を実施するための財源を今の政府が捻出できるかというと、恐らくそれは不可能であり、仮にやるとしても消費税などの増税や他の部分での福祉の切捨てなどが伴ってくるだろうし、またグローバル経済下で利潤を内部留保に溜め込む資本や富裕層に対して課税する、あるいは軍事費を転用するなどということは今の権力構造からでは現実的ではないだろう

 それゆえに、左派が主張するべきは、安倍政権により良い対策を求めるのではなく、感染症を拡大させてしまう今のグローバル資本主義のシステム及び資本の利潤が労働者人民の生活には還流されない構造を大衆的に暴露した上で、人の集まり、外出、移動の規制に抗い、街頭に出ること、実力を伴う生存のための行動の正当性を大衆に呼びかけることである。相次ぐ休業と外出自粛の圧力で生活に困窮し、社会とのつながりも薄れていく人々は今後世界レベルで急増するだろう。にわかに現実味を帯びてきた世界的な恐慌情勢はこれを一気に加速させる。そのなかで仕事と社会との接点を喪失した人間が街頭に出て運動と結合していく流れが生まれれば、これは場合によっては大衆的な暴動、蜂起が各地で生まれることにつながるし、
占拠と略奪が新たな生存圏を生み出すことも考えられる。今現在世界で起きている人々の集まり、外出及び移動の規制は構造的には予反革命ともいえよう。したがって、日本の左翼は感染症危機を内乱に転化せよ!を断固スローガンに掲げ、世界の運動の動きと連帯しつつ現代における新たな蜂起の可能性を今回の危機のなかに見出していくべきであろう。

 

千田有紀の「「女」の境界線をひきなおす 「ターフ」をめぐる対立を超えて」について

 つい先日市場に流通しはじめた現代思想2020年3月臨時増刊号「総特集 フェミニズムの現在」に武蔵大学社会学部教授で現代社会学を専門とする千田有紀の「「女」の境界線をひきなおす 「ターフ」をめぐる対立を超えて」という題名の論考が掲載されていて、Twitter上で物議を醸している。元々、この論考は最近の主にTwitter上で激しくなっているトランス女性への差別言説に関連して浮上してきた問題を扱ったもので、論考の内容がトランス差別的だという指摘が次々に出てきている。すでにこの論考についてブログで論じている人もおり、私もSNSやブログを見た限りどうしても一度は目を通しておく必要があると思い、早速雑誌を手に入れて、件の論考を読んでみた。以下では読んだ上で私の立場から言わせていただかねばならないことを述べていく。

 トランス女性差別云々の議論に関しての私の立場性を言わせていただくと、私自身、出生時に割り当てられた性別が男性で、現在は女性として生活しているトランス女性である。したがって差別の当該の立場から私は千田有紀の論考を読んだ。2018年7月にお茶の水女子大学がトランス女性の受け入れを公表して以来、これに反対する意見がTwitter上に現れ、そこからトランス女性の存在をシス女性の安全を脅かすものとして敵視する言説があふれ出てきた。私は平素からSNS上での議論にはあまり意義を感じず、参加しないので(特にTwitterでのやり取りは神経を消耗する割には得るものがあまりない)、この間のトランス差別をめぐるSNSでの論議にも参加せず、また自分の経験上、自分が持つ属性に起因する差別言説をSNSやブログなどの媒体で目にすることで気分を害するので、あまりこの種の言説には触れないようにしてきた。しかし、吉田寮の入寮パンフにトランス女性のことについての文章を寄稿することにしたため、この種の言説にも触れておく必要があると思い、この10日近く集中的にチェックしてみたが、正直な所、相当に唖然とさせられ、憤慨もし、そして既視観のある言説、つまり実生活で私に向けられた差別発言をそのまま再生産したようなものがかなりあると感じた。そんななかで私は千田有紀の論考を読んだのである。

 私は千田の論考を読んで、やはりこれはトランス女性に対して明確に差別的であり、到底許せない差別扇動をアカデミックポストの座に就く自身の特権を活用して行っていると言わざるをえない、と判断した。以下ではその理由を一つ一つ説明してゆく。

①TERF, つまりはtrans-exclusionary radical feministという言葉の定義の仕方の危うさ

 千田は論考の冒頭で、この言葉は本来は「フェミニストによる、フェミニズムの反省の言葉」であったのが、本来の意味を離れてトランス排除的な視点を持つ人間への中傷の言葉となっていて、日本でもそうなってきている、としている。フェミニズムのなかでトランス女性の存在が不可視化、ないし周縁化されてきた側面があるのは間違いなく、だからこそ、そのことへの真摯な総括とフェミニズムによるフェミニズム自身への問いとしてTERFという言葉が生まれた、というのは納得できる話であり、それはフェミニズムが性のあり方によって人間が抑圧される理不尽さと闘うものである以上、トランスの観点がフェミニズムに備わっているかどうかは当然問われるべきである。ところが、千田はその言葉が今では他人を中傷・侮辱する言葉になっているということを述べ、これは危惧されるべきことだと言う。元々、トランス女性への差別を俎上に乗せる問題意識から生まれた言葉である以上、実際に起きているトランス女性への差別やそれの温床となる構造にフェミニズム全体が十全に向き合えない限りこの言葉を中傷や侮辱の言葉としてラべリングして読み手に紹介することはトランス女性による逆差別が今は起きているという現実と乖離した印象操作を行うことになる。千田は冒頭から危うい論調で読者を引っ張っているのである(※ちなみに私はTERFという言葉は基本的には使いたくはない。なぜならトランス女性は女性であり、女性への差別に加担する連中をそもそもフェミニストとして扱うことはフェミニズムへの誤解を生み、かつトランス差別を軽く見ることに繋がるからである。一連のフェミニストを名乗るトランス差別者の一群については「偽フェミニスト暴力集団」とでも呼んでおきたい)。

② 大学という場でトランスジェンダーがぶつかる困難の軽視

 千田は自身の大学教員としての経験からトランスの学生の相談に乗った際に、学内でトイレに困るなどの困難はあまり問題になっていなかった、と書いている。しかし、こうも書いている。「尋ねてみたこともあるが、各々工夫を重ねているようだった」と。そもそもシスジェンダーの学生であればトイレ問題で工夫する必要は病気や障がいという事情がなければ基本的にはあまりないはずで、トランスの学生が各自で工夫して対処することを強いられている時点で大学という場所がトランス差別的な空間なのである。この点を千田は全く軽視し、自身の教員としての責任・立場を問うことすらしていない。ちなみに私の経験から言うと、大学のトイレは基本的に女性用と男性用に分かれていることが大部分でユニセックスのものは限られている。私の所属する京都大学文学研究科について言えば、教室及び研究室の集中する文学部新館(8階建て)は1階に誰でも利用可のトイレがあるだけであとはすべて女性用と男性用とに分かれており、トランスの学生にとってはかなり不便な環境である。このことについて私は大学に相談したことがあるが、1階のトイレがあるからそれを使いなさい、というだけであまりきちんと対応しようという感じでは何らなかった。

 また、トランスの学生が大学の教室や研究室でハラスメントを受ける危険性の問題が何ら取り上げられていない。私の経験から言っても、授業のときなどに「君」付けで呼ばれたり、「彼」と呼ばれる、奇異な視線で見られる、服装を揶揄される、他の学生たちの見ている前で性別に関する情報を訊かれる、といったことは何ら珍しいことではない。その辺りのことが千田の認識の範疇に入っていないのである。

③ 千田の立場性の問題

 千田は今現在起きているSNS上でのトランス差別言説を「ターフ戦争」と形容し、「いま存在している不要な(と私は信じている)争いを終わりにしたいと切に願っている」と書いている。なぜ、千田はトランス女性への差別言説の横行する現状をわざわざ「戦争」という言葉を用いて表現するのだろうか?これだとお互いに非を認めるところがある、という話になり、トランス女性の受けている差別の問題が覆い隠されてしまうではないか。さらに千田は不要な争いは終わらせたいと述べるが、いかなる立場で争いを終わらせたいのだろうか?現実社会にトランス女性への差別構造が存在し、かつSNS上でも偏見と差別に満ちた言説が飛び交うなかで単に争いを終わらせよう、というのは根本から問うべき課題、置き去りにせずややこしくするべき問題に蓋をして、結果的にマイノリティを犠牲にすることに繋がりかねない立場と言わざるをえない。

④ 男性器及びそれと関連した入浴問題についての議論の雑さ

 この論考で千田はトランス女性(※ここでは性別適合手術をまだしていないトランス女性)がシス女性と共に銭湯や温泉の女湯に入ることの可否が議論の俎上に上がってきていることに触れ、シス女性がこれに拒否反応を示すのはペニスというものが持つ暴力性・加害性ゆえのことであり、差別意識からではないと述べている。確かに今の日本の銭湯や温泉は女湯と男湯に分かれているのが当たり前で、性別の異なる人間同士が共に入浴するというのはプライベートな空間でかつ十分な信頼関係がある場合に限られているだろうし、その背景に男性による性暴力、強姦の恐怖、ペニスが女性を無理に妊娠させうる凶器として使用できうる、からというのも妥当な見解と思われる。しかし、これはあくまでも現在の日本だけを見た場合の話で、過去を振り返れば、混浴が公然と行われていた時代もあるし、ペニスへの恐怖を女性たちが抱く現状が果たして通時的に見ても変わらないことなのかどうかへの問いが千田には欠けている。

 また、今の銭湯や温泉自体についてもそもそもこの社会にはヘテロセクシャルかつシスジェンダーの女性と男性しかいない、同性同士ならば同じ湯でも大丈夫という考えのもとで設計されてきた点を問い直す必要がトランス女性の入浴問題を考えるにあたり求められてくるはずだが、この点まで千田は踏み込まず、自らが話題化したテーマであるにも関わらず、「争いを深め、不要な対立をあおる風呂について語ることが、生産的だとは思えない。もうこの風呂の話は、終了したらいいのではないか」と書いて、議論を中途で放棄してしまっている。千田自身、風呂の問題がトランス差別を巡る大きな論点だとしながらもこのような態度を取るのでは真剣さを疑わざるをえない。

ジェンダー論の議論の問題性

 千田はジェンダーの理論に関する議論の歴史を三期に分け、第一段階ではジェンダーが社会的に作られることが議論され、第二段階では、ジェンダーのみならず身体もまた社会的に作られると言われるようになり、その考え方の延長で第三段階ではジェンダーも身体も自由に選択可能なものとなったする。したがって、ジェンダーロールもジェンダーアイデンティティも、そして身体も後天的に作られたフィクションであるという考え方へとジェンダー論が変遷していったと述べる。千田自身がこうしたジェンダー論を踏まえた上で、女性と男性を生物学的に別物だと本質主義的に分類することを否定している。ここで問題となるのは、では千田が言うようにジェンダーも身体も全き自由意志で選択可能だとした場合、トランス女性の性別移行はどう捉えられるべきなのか、ということである。千田の論ではトランス女性は自分の意思で自分の性別を選び取った、ということになるが、果たしてそれはどうなのだろうか?

 ここからは私自身の経験も踏まえて自分なりに考えたことを述べるが、まず言っておきたいのは私自身がジェンダーロールもジェンダーアイデンティティも身体もすべて自由に選択可能な、性の主権者であると感じたことは一度もない、ということである。

 ジェンダーロールに関しては家庭や学校での生活を通して作り上げられている、いつの間にか自分のなかの常識として定着してしまっているのはその通りだと感じるし、分かりやすい例で言うと、今の日本でスカートを履くのは女性で男性は履かないものだ、などというのは確実な根拠をどこにも持たないものである。女の子なら、男の子なら、女性なら、男性なら、これこれこういうことが好きだ、嫌いだろう、というのも基本的には単なる偏見であったり、問い直されるべきものであったりすることが多く、だからこそジェンダーロールに縛られない自由な振る舞いが出来るようになることは望ましいし、既存の考え方のために再生産されている抑圧を取り除くことも出来るのである。

 しかし、これがジェンダーアイデンティティ、あるいは身体のこととなると事情は異なる。大人たちに女の子向け、男の子向けとして推薦されたおもちゃや服、遊びを好まない子どもはいくらでもいるし、そのことがジェンダーロールの根拠のなさを示すのだが、ではその子が成長の過程で性別を移行したい、生まれたときに割り当てられた性別と異なる性で社会生活を送りたいと希望するかといえば、これは全然別の話である。子どものころに女の子と遊ぶことを好み、世間で女の子向けとされている服やおもちゃ、アニメ、マンガを好む男の子が成長の過程で女性として生きたい、自分の身体を女性的なものに変えていきたい、と必ずなるかといえば全然そんなことはないのである。トランス女性当該の私にとっては、ジェンダーロールとジェンダーアイデンティティは全く別物であり、ジェンダーアイデンティティを変えることなど出来る話ではないのである。

 今の社会で人間の性別の割り当てというのは、外性器の形状のような身体の一部の要素だけで決められているものであり、これがいかに偏った性別の決め方かはそもそも私たちの日常生活では誰が女性で、誰が男性かを判断するのに性器も染色体もホルモンも何ら確認されていないことがほとんどであることから分かる。生まれたときに性別を割り当てるときに参照される要素は実生活での性別判定では使われず、ほぼ見た目で判断されるのが現実である。したがって、人間の性別が紋切り型で女性と男性に分けることができないのも、そもそも性別を決める基準が確実に信頼に足るものではなく、人間の身体のどの部分が人間の性別を決めるのかも必ずしも明快ではないからである。トランスジェンダーの場合だと、生まれたときに女性ないし男性と判定される要素、そして外見で女性ないし男性と判断される要素を確かに元々は持ち合わせてはいたが、恐らくは身体のなかにそれとは矛盾する、トランスジェンダーをそれたらしめる何かが要素として内在し(それはDNAだったりするのかもしれない)、そのことが原因で、成長の過程で、社会生活への参加の過程で、自分の身体への違和感及びジェンダーアイデンティティと割り当てられた性別との不一致が生じてくるのである。

 日本の医学界では上記の現象を「性同一性障がい」と名づけて病理化し、身体的な性別と精神的な性別との相違を特徴と見たが、私から言わせていただくと、身体的性と精神的性という分け方はプラトン主義的、あるいはデカルト主義的な霊と肉の二元論を前提としたものであり、観念論そのものである。こうした観念的把握がジェンダーロールとジェンダーアイデンティティの混同につながり、ひいては人間が自身の性別の全き主権者であるかのような誤解を生むのである。唯物論的にこれをきちんと把握すると、トランスジェンダーの生の現象は、出生時に割り当てられた性別に基づいて育ち、社会生活を送る過程で自己の身体の内部の明らかに矛盾する部分、トランスジェンダーが自分と異なる性として扱われる根拠になる身体的特徴と自己を自己の性たらしめるジェンダーアイデンティティを生み出す根拠となる身体内部の素質が絶対矛盾的自己同一した状態となっているためだと把握できるのである。その状況のなかでトランスジェンダーは自分の性別を他人に認めてもらえず、一方的に押し付けられるだけの存在となり、性的に自己疎外の暗闇に閉じ込められてしまうのである。その矛盾が引き起こすさまざまな葛藤や苦悩及び自己の身体の矛盾を抱えながら日常生活、学校、職場、地域などといったさまざまな場所での性別を問われる機会・行為が否定的契機となって、本来の性別で生きることこそが必然であり、その必然こそが自由をもたらすことを弁証法的に掴み取った末に、トランスジェンダーは疎外された性別を回復する自己解放の闘争に立ち上がり、それが現象論的には性別移行として映るのである。したがって、私自身の経験を踏まえてもトランス女性の性別移行はブルジョワ個人主義的な自分に対する主権者としての自己の自由意志によるものではないのである。

 千田はジェンダーアイデンティティ及び身体を物質的な根拠なしに観念的な存在として捉える考えを無批判に受容しており、だからこそ観念の次元で性別が移行できると誤解している。実際にはトランスジェンダーは現象論的には性別を変えているようで、実体論的には何ら性別を変えてはいないし、本質論的には自身の身体内部のジェンダーアイデンティティを司る部分と他者にとって性別判定標識となる部分とが絶対矛盾的自己同一しているので、そこから身体改変が矛盾の揚棄のために求められてくるのである。論考を読むと、千田はトランス女性の当事者の声を聴取することをあまりしておらず、生きた人間の現実と相互に格闘せずに、いかにもブルジョワ学問的な流儀で「客観主義」的にこの論考を書いている。だからトランス女性という存在を把握する上で彼女らの生の現象をつかみ損ねてしまい、トランス女性という存在を下向的に分析することに失敗しているのである。

さらに千田は身体はフィクションであるという考えを踏襲しつつも、一方では男性のペニスを④で述べたように本質主義的なニュアンスで捉えるという矛盾も犯していることも銘記されたい。

⑥ トランス女性の経験が考慮されていない

 ⑤でも述べたように千田はトランス女性当事者との関わりを持たずに論文や書籍などで得た情報を観念論的に、ブルジョワ個人主義的に解釈してトランス女性のことを論じているので、トランス女性が女性として生きる道を歩む際の困難があまりこの論考では語られない。まるで趣味や嗜好で女性生活をはじめているとでも言いたいのかくらいに性別移行の自由の強調に比して困難さが語られない。

⑦ 話題が二転三転する

 千田の論考を読むと、風呂の話題をしていたと思うと、急に論の展開をやめたり、スポーツの話題をしたかと思うとこれも半端な段階でやめて次の話題に移るのが見て取れる。これは千田自身の考えが煮詰まらぬまま論を書いたことの証左に他ならない。

⑧ 誰が女性なのかを千田が決めようとしている

 トイレ問題を扱うにあたり、千田は「すべてのひとが安全にトイレを使う権利がある」と述べる。これは正しいが、その上で千田は女性というカテゴリーが社会的に構築されるものなのに性の多様性を標榜する者がなぜトランス女性を女性のカテゴリーに入れようとするのか、と書き、「トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか」、が問題だと述べ、「女性が安全にトイレを使う権利」と「トランス女性が安全にトイレを使う権利」を別々に分けた上で共に尊重されるべきであると述べる。この千田の論の問題は誰が女性かと言う問題をトランス女性当該を抜きにして社会的に決めようとしている他、トランス女性を女性のカテゴリーに含んでいないことである。⑤で述べたようにトランス女性は自己の全き自由意志で自身の性別を選んだのではなく、封印された自己の性別を回復させる道のりを歩んでいる人たちである。したがって、トランス女性は女性であることに異論の余地はなく、わざわざカテゴリー分けを試みる千田は性を自分で選択できるという論に乗りながらなぜかトランス女性を女性カテゴリーに含まないという差別的かつ矛盾したことをやってしまっているのである。さらに千田は女性用トイレをトランス女性に使わせることがトランス女性の安全を守ることになるのかを問うべきと述べるが、ではシス女性の安全を守るために女性用トイレが必要なのかは問わないのである。

⑨ トランス女性への恐怖の扇動

 千田の論考を読むとカナダのバンクーバーで起きた事件を丁寧に背景を説明することなく取り上げてトランス女性やその権利の擁護者が非常に暴力的だという印象を読み手に与えている。一方ではトランス女性が日常生活、職場、学校、地域で受けている暴力の問題はほぼ参照されず、バンクーバーについては事件の暴力性がことさらに扇情的に強調されている。また、日本のSNSでのトランス女性を巡る議論についてもトランス差別的な言説は参照せず、トランス女性擁護側が反対者を一方的に中傷しているかのような印象を与える記述も見られ、公平さを著しく欠いた形でトランス女性への恐怖が煽られている。論考の最後でTERFを見つけ出して制裁を加える方向以外での解決策をと千田は提唱するが、現実にトランス女性が差別構造のなかで不利益を被り、差別的言動を公に浴びせられているときにTERFを制裁するな、より良い方向性を取るようにとトランス女性側を説教するのは、被害者叩きに他ならず、しかも千田自身にはトランス女性の解放のために何をなすべきなのか?という自己への問いが全く不在なのである。TERFと呼ばれる者の言説が看過できないレベルで差別的である以上、それに対する糾弾は正当なものであり、さらに言うと、日常的に権利を制限され、抑圧されているトランス女性が差別者に抗して立ち上がることはそれ自体自己解放的であり、不当な扱いや差別に抵抗する権利があることを自己の内で確認していく大事な作業なのである。バンクーバーで起きた出来事の恐怖を煽りながら、天上の高みから地上の騒乱を見物して評論する語り口で論を終えることで、トランス女性フォビアが読者に印象付けられる形となっているのは非常に悪質な印象操作である。

⑩ 根拠のないTERF擁護

 また、千田はいわゆるTERFについて、自分の知る限り差別意識を持つ者はいない、と述べて擁護する立場に立っている。千田の言い分だとではあのTwitter上でのおびただしい差別言説はではどうなんだ、ということが全く説明できない。実質的にトランス差別がなかったことにされているのである。しかも論拠が自分の知人にいない、ということであり、匿名での差別書き込みの多さを考えても何の根拠もなしに差別者の存在を覆い隠そうとしている魂胆が透けて見えるのである。

 以上、私は千田有紀の論考について自分なりに分析を加えてみたが、結論として改めて言わせていただくと、千田氏の主張は論としても説得力がなく、内容は差別的でかつトランス女性による暴力の恐怖を煽るものであり、このような文章を大学教員という社会的にも一定の影響力を有する立場の人間が書いて公にするのは到底許しがたいことである。千田氏はこのような論考を公表したことの責任を負うべきであり、自身の行為の総括および自己切開を通した自身の差別性の自己批判をきちんと行わない限りは教壇に立つことも公の媒体に自分の文章を出すことも許されてはならないと私は考える。

 最後に私から言いたいことは日本社会が差別社会であり、その状況下で起きているSNS上でのトランスフォビアに大学教員まで加担し始めたことに私たちは大いに危機感を高めていかねばならないということである。差別の根源である天皇制が未だ存続し、障がい者が集団虐殺される事件が起こり、朝鮮学校への弾圧、在日コリアンへのヘイトクライムヘイトスピーチ、入管当局による外国人への暴力と排斥などが行われ、書店の店頭には差別排外主義的な書籍が並び、新型コロナウイルスの問題も中国人フォビアの扇動に悪用され、山口敬之のような凶悪な性犯罪者が野放しにされ、麻生太郎のようなヘイト発言を繰り返す人間が未だ公職に就くことが許されるのがこの社会である。そのなかで生きる私たちはSNS上でのトランス女性差別が現実生活でのさらなる暴力に転化し得ること、それに抗するには何が今求められているのかを問い、考え、実践していかねばならないのだ。