書評『未来への大分岐』
書評『未来への大分岐』
※人民新聞1月25号に掲載された私の記事を若干修正して2020年度吉田寮入寮パンフに掲載したもの
第一部のハートと斉藤の対談では、政府の政策ではなく社会運動が重要という観点が示され、インタビューと同様に斉藤は日本の運動の政治主義化を批判する。同感だが、日本では運動で資本・国家を規制できなかったので政治主義に陥るという斉藤の認識には疑問を感じる。戦後の左翼運動の成果があまり省みられておらず、2・1 ゼネスト前後にかけての戦後革命、総評労働運動、60 年安保闘争、68 年闘争が言及されていない。戦争と植民地主義への日本の加担を阻止できてきてないとしても 9 条改憲、辺野古新基地建設が未だ阻止されていること、三里塚闘争や上関原発阻止闘争などがずっと闘われてきたことも無視できないはずである。大衆運動の成果を軽視する斉藤の視線こそが大衆への不信に根差した政治主義を生むのではないのか。インタビューで斉藤は「代表制のなかでこぼれ落ちている声をすくい上げること=社会運動」と述べる。では、これまでの社会運動を上から目線で論じるよりも運動現場との協同で戦後の左翼運動の丁寧な総括とその蓄積の継承に斉藤は取り組むべきではないのか。
また、対談では「コモン」を作り、人民に必要な物質的な財の共有化を運動で実現していく方向性が提示される。民営化による資本の所有の抑制が人民の生存に不可欠なのは確かだが、市場の廃絶は語られない。斉藤はインタビューで「市場は当分なくならないでしょう」と語るが、価値法則が公共財の商品化をもたらす以上は価値法則の廃絶を俎上に乗せずに資本の論理に抵抗することは不可能なはずである。さらに、私有財産権が国家の暴力装置による物理的な力を後ろ盾として法で保障されている現実を鑑みると、人民の共有財産を確保する運動は必然的に国家権力との垂直的対決を招来するし、人民が物理的な力を獲得し、武装することが不可避となるが、この点を見据えた議論は見られない。また斉藤はインタビューで気候対策を考えると国家は必要と述べるが、国家権力が資本を支える暴力を提供し、資本の論理が気候変動の背景にあることを考えると矛盾してはいないか。
さらに、両者は水平型の運動の限界に言及し、運動現場での中央集権制と組織化の混同を批判しているが、運動における組織論は誰がどこで何を実践していくのかということと切り離しては論じられないはずである。運動の形態、運動体のあり方は実践する主体が実践とそれがなされる場所及び実践を通して働きかける対象との相互関係のなかで弁証法的に掴み取っていくものであり、客観的に望ましい運動形態など存在しないのである。
第二部のガブリエルと斉藤の対談では価値相対主義の蔓延が歴史修正主義に力を与え、民主主義や人権概念を脅かしているという認識が共有される。ガブリエルはポストモダン思想が権力に利用されていることを述べ、普遍的な倫理を基礎付けるヒューマニズムの復権を説く。斉藤も同様のことをインタビューで語るが、果たして問うべきは普遍的なものを疑わせる思想なのか?いかなる立場の思想であれ政治的に全く中立であることなどあり得ず、むしろ問うべきは政治とイデオロギーの関係性ではないのかと感じる。また、ガブリエルはエリート主義に基づ
いた、AI を利用できるテクノクラートによる独裁が近未来に出現し、哲学が排除され、倫理が失われる危険を語り、哲学者が倫理を司るべきだと語るが、これはAI を操れるテクノクラートによる独裁とはまた別の哲学者による独裁を実現せよ、というもう一つのエリート主義であり、この点に斉藤、ガブリエル共に自覚的でないのが気になる。
第三部ではメイソンと斉藤が情報テクノロジーについて語る。メイソンは技術の進歩が生産コストを引き下げ、資本の利潤の源泉を喪失させると予測する。しかし市場が存在し、賃労働関係が存続している以上、利潤の低下は労働強化と賃金の抑制につながるのは間違いないが、この点はあまり深刻に議論されずインタビューでも斉藤が楽観的なのは気になる。AI などのテクノロジーの進展が未来社会における社会主義を可能にするという日本共産党の近年の主張と同様であり、小ブル主義的な技術信仰、左派加速主義的な側面をメイソンには感じてならない。
最後に本書について一言述べると、資本主義、テクノロジーそしてヒューマニズムという万人に関わるテーマを扱っているにも関わらず本書のカバーの通り「帝国主義国家の男性(に見える人)」のみで対談が構成されているのには違和感を禁じ得ない。