感染症危機を内乱に転化せよ!が今こそ左翼のスローガンとなって良いのではないのか?

 今や知らぬ者を見つけるのが至難の業であるほど件のウイルスに伴感染症による被害とその脅威をめぐる話題は人口に膾炙しているTwitterを開いても、ニュースを見てもこの話に必ず触れる日々である。今回の感染症をめぐる一連の混乱のなかで安倍政権が全力で進めてきたかの東京五輪もついに一年延期にせざるをえなかった。もとより現在の日本では、五輪を開催して日本中で夢を見よう、などという時代錯誤も甚だしいことをやる余裕などどこにもないのだが。ちなみに夏季五輪が延期になったのは史上初めてのことで、過去に両大戦時に夏季五輪自体が中止になった例を除くと、夏の五輪の開催が何かの出来事のために予定通りに出来なくなるというのはそうそうないことである。

 多くの人が知るように、今の日本では感染症のために予定されていたイベント、行事、集会などが次々に中止または延期されて、仕事が休業となる所も続出している。安倍政権は今回の事態を鑑みて、先月に全国の学校の休校措置を要請し、さらに政府の強権発動を可能にする緊急事態宣言が出せるようにと法改悪を国会に上程し、あまりきちんと審議されないまま大政翼賛的にこれが可決された。1月に自民党伊吹文明が危機を乗り切るためにはやはり憲法に緊急事態条項が必要などと発言したことがあったが、現在の安倍政権の方向性はまさにその道へと向かっている。一連の自体の中でイベントなどを自粛する動きが相次いでいたが、そこから更に政府が法的な権限を活用して住民の生活を管理・統制する方向へと向かいだしたの
は間違いない。すでに入管制度を強引に活用しての入国制限が開始されており、今月に入ってからは韓国・中国からの入国制限も開始されている。東京都が先日都民への外出自粛を求めたが、この動きは他にも拡大しそうで、今後の感染症成り行き次第では首都封鎖もあり得るとのことである。日本以外の国でも類似の状況に陥っている国は多く、各々詳しくは知らないがより強権的な形で人々の外出や移動を罰則規定を設ける形で制限・禁止している国家も珍しくはないという。今回の感染症危機は昨年末に中国・武漢市での原因不明の肺炎が報告されて以来、またたくまに世界的な混乱を引き起こしている。私は医学的知識が甚だ不足しているので、なぜここまでこの感染症が拡大したのかは正確には分からないが、グローバル化
伴い、従来とは比較にならないレベルの速度と強度で人間が多様に移動し、物流ももはや世界レベルで連関している、いわば世界全体が過去と比べて、例えば100年、200年前に比してはるかに小さくなったことが感染拡大の背景にあるのは間違いないだろう。いわば、グローバル経済の矛盾の現れである。

 また、今現在の日本の状況についていえば、感染者は他国と比較してそう多くないなどと見る向きもあるが、それは単に検査を受けている人の割合が低いためであり、また今の日本では労働者の過半が正規雇用と比べて身分保障が著しく不安定な非正規雇用が占めているため、体調を崩しても仕事を休めない、病院に行くのも経済事情を考えると控えざるを得ない人が多いために感染者の拡大は実情に比して顕在化していないと考えられる。この20年以上の新自由主義経済がもたらした悲惨な雇用状況こそが重大な感染拡大要因であると考えてもよいのではないのか。

 こうした状況の中で安倍政権の感染症対策の排劣さと危機に乗じて改憲への匂いをもうかがわせる緊急事態宣言発動の画策に対して左派の間では危機感が高まってきている。ここで考えなければならないのは、政府に感染症対策の推進を求めること自体が長期的に見て社会の管理化及び住民を統治・監視するためのテクノロジーの向上に加担する危険性が大であるということである。本来、病気への対処は個人の主体性のもとに行われるべきであり、必要なのは望む個人が薬品を入手したり、医療機関を受診することなどが問題なくできることであり、今現在世界で起きている公権力が個人の健康管理にまで介入してくるような措置はその制限を踏み越えたものであり、必然的に個々人の統制・管理を強化する。また感染症の拡大自体
も希望しても検査も受けられず、体調が悪くても仕事も休めない人間が多くいるなかでは、人々の集まり、外出や移動を制限しても大きな効果があるとは思えず、単に公権力の私的空間への干渉拡大につながるだけではないのだろうか。

 今回の感染症の拡大への対応を「戦争」と表現する向きが各方面で見られるが、第二次世界大戦以後初めて、夏の五輪の開催予定を変更に追いやり、短期間で世界各国に自国の法律・制度及び感染症策に活用できる官民の人的・物的資源を最大限の速度と強度で総動員することを強要している今回の危機は見方を変えれば世界大戦的であると言える。ウイルスの感染拡大を防ぐことが戦争目的であるとすれば、ウイルスの感染経路となる空間・建物・物品、そして人間の身体は戦場と同じになる。その結果、感染症に羅患した人間の身体は一個人の主体とは切り離された対象とみなされ、個人の身体に加えられる規律型権力と人口を対象とする生権力とが対感染症結合する。感染症対策は個人の健康のためではなく、類としての健
のためになされていく。安倍政権の進める緊急事態宣言発動の動きは危機から生まれる例外状態での政治権力の作用の観点から注視しなければならないが、感染症対策それ自体に権力性が大いにあることを忘れてはならぬだろう。件のウイルスはこれへの対策に忙殺される各国政府にとっては敢えて喩えさせていただくと一般の人間とは比較にならないほどの隠密性と速度で至る所へと侵入できる「テロリスト」のようなものであり、その意味では2001年以降のいわゆる対テロ戦争で活用・向上を図られてきた人間や空間を監視・管理するための技術が大幅なアップデートを要求されているようなものである。米国のトランプが9・11以来の国家非常事態宣言を出したのはそのことの一つの象徴であろう。世間の一部では今回のウイルスを生物
兵器云々という何ら信憑性のないデマが流布されているが、このようなデマが流れること自体感染症とテロがある種の同一カテゴリーの中で捉えられていることの証左であるといえる。今の世界各国の政府は感染症対策のなかで自国社会の中の規律型権力と生権力をどれだけの速度と強度で総動員し、向上できるかの世界大会をやっているようなものなのである。

 したがって、単に安倍政権が目論んでいるであろう緊急事態宣言の発動→改憲への流れを別にしても(※もちろん、それ自体は軽視はできない)、今起きている状況への対処を経験した行政機関・企業などがその経験とそこで得られた技術を住民、労働者の管理のために活用し、ひいては社会運動を可能とする空間や人の集まりを解体し、ないし生成させぬようにしていくことは十分に考えられることなのである。したがって安倍政権に対して感染症への対策と検査・管理体制の強化を社会運動の側から要求するのは実質的に見て政府が進める緊急事態宣言→改憲への動きと同一方向になる可能性が危惧されるのである。ましてや今の状況を見てむざむざと集会などを中止して、自粛の動きに合わせている運動体が少なからずあること
ど論外という他はない。

 では、今回の事態のなかで運動側はどのような論の立て方をしていくべきなのだろうか?まず原則として、人民の生存と国家・資本の存在は非和解であるという前提を押さえた上で、安倍政権、政府が人々の生活を脅かすものであることを大衆にとって明瞭にするためにその施策のまずさを暴露していくことは重要である。ただし、解決策をより良い政府の施策に求めていくのではなく、下からの運動を組織していく方向を取る必要がある。そもそも今政府に期待しても何を得られるであろうか?私自身が先述したとおり医学的知識を欠いているので、素人考えとなるが、まず今必要なこととしては、①医学的見地からの正確な情報を誰もが入手できるようにする②体調が思わしくなく、気になる人がすぐ検査にいけるように経済的その
他の補償をする③検査体制の拡充と共に医療労働者の環境及び医療設備を大幅に改善していく④新薬の開発を支援する、などが挙げられよう。しかし、これらの施策を実施するための財源を今の政府が捻出できるかというと、恐らくそれは不可能であり、仮にやるとしても消費税などの増税や他の部分での福祉の切捨てなどが伴ってくるだろうし、またグローバル経済下で利潤を内部留保に溜め込む資本や富裕層に対して課税する、あるいは軍事費を転用するなどということは今の権力構造からでは現実的ではないだろう

 それゆえに、左派が主張するべきは、安倍政権により良い対策を求めるのではなく、感染症を拡大させてしまう今のグローバル資本主義のシステム及び資本の利潤が労働者人民の生活には還流されない構造を大衆的に暴露した上で、人の集まり、外出、移動の規制に抗い、街頭に出ること、実力を伴う生存のための行動の正当性を大衆に呼びかけることである。相次ぐ休業と外出自粛の圧力で生活に困窮し、社会とのつながりも薄れていく人々は今後世界レベルで急増するだろう。にわかに現実味を帯びてきた世界的な恐慌情勢はこれを一気に加速させる。そのなかで仕事と社会との接点を喪失した人間が街頭に出て運動と結合していく流れが生まれれば、これは場合によっては大衆的な暴動、蜂起が各地で生まれることにつながるし、
占拠と略奪が新たな生存圏を生み出すことも考えられる。今現在世界で起きている人々の集まり、外出及び移動の規制は構造的には予反革命ともいえよう。したがって、日本の左翼は感染症危機を内乱に転化せよ!を断固スローガンに掲げ、世界の運動の動きと連帯しつつ現代における新たな蜂起の可能性を今回の危機のなかに見出していくべきであろう。