予見される将来における「挙国一致」体制を見据えて考えておきたいこと
感染症危機に伴う緊急事態宣言が発令されてから、10 日間のうちに宣言の対象地域が全国に及ぶこととなった。新型インフルエンザ予防法の改定からおよそ 1 月が経つが、Twitter などの SNS でも、ニュースでも緊急事態宣言を出すことを求める言説、今は危機なのでやむを得ないという雰囲気が急
速に広がってきたなかでの対象地域拡大である。この間、立憲民主党などの野党や医師会なども現政権に宣言発令を求めてきたことと併せて考えると、感染症対策のためであれば政府の強権発動は仕方ない、いやむしろ積極的に行うべきである、という声がこの国の至る所で日増しに高まってきているのは間違いないだろう。安倍政権は緊急事態条項を憲法に盛り込むことに意欲的な姿勢を見せており各種報道による誘導もあって、世論もそれを望む出してきている。こうした今の状況をどう考えるか?
安倍政権発足前に自民党がまとめた改憲案を見ると、緊急事態条項の内容は①緊急事態の期限自体は 100 日だが、国会の承認さえあれば何度でも延長できる②緊急事態発令下では衆参両院の国政選挙を行わなくてもよい③法と同等の効力を有する政令を内閣が定めることができる④緊急時の必要を鑑みて個人の権利を制限できる、とあり、④の個人の私権制限は恣意的な解釈がしやすい書き方になっており、一部ではすでに緊急事態条項を憲法に加えることが独裁の道を開く危険がある、という警告がなされてきた。いよいよこの事態に際して緊急事態条項を糸口にした独裁の現実性が見えてきたのと言えるのである。
左派のなかでは安倍政権の改憲への動きへの警戒感は依然として根強く、左派でさえも大多数が現政権に緊急事態条項を設けるための改憲を求めるには至ってはいない。だが、感染症の患者が今後も増加を続け、人々の不安が高まり続けば、各種報道の影響下で個人の外出や移動、集合、商店などの営業を強制力をもってやめさせられない今の日本の法体系に対しての批判と緊急事態条項設立への要求は急速に高まることも予測される。そもそも近代のブルジョワ国家においては軍隊と例外状態における主権の行使に関する規定が存在するのが一般的であり、日本国憲法のように軍の規定も例外状態における措置に関する規定もない憲法というのは非常に特殊なのである。したがって危機に際して緊急事態条項の必要性を説く言説があふれてくるのはいわば当然のことなのである。
この国では、戦後革命、総評労働運動、60 年安保闘争、68 年闘争に見られるような下からの運動が一定の影響力を有していたので歴代の政権はうかつに改憲に踏み切れなかったが、支配層からすればこれは本来であれば到底許容しがたいことなのである。ゆえに、非常時における政府の強権発動を否定する立場は唯一つ、国家の廃絶を目標とした革命を対置させ、例外状態における主権の行使を時の政府ではなく、革命派が行う、これのみなのである。その立場と一体でこそ軍の規定も例外状態の規定もないブルジョワ国家の憲法としては重大な瑕疵のある現行憲法の改定を阻止することの論理的一貫性が保たれるのである。その意味では今の情勢は構造的には時の政府と革命派のどちらが例外状態におけるヘゲモニーを握るかの、という攻防なのだ。ところが、現在の日本の左派ではボルシェヴィズムが影響力をめっきり低下させており、アナキズムも運動としては十分に組織化されていないこともあり、左派の多くは改良主義的である。国家の廃止を目標としない、革命を目指さない改良主義の立場では既存の国家に対する責任を左派の側も負うことを求められるので、政策論争の土俵に乗らざるを得ない。そうなるとブルジョワ国家の論理を左派も受け入れざるをえなくなる。したがって、今の日本の左派が緊急事態条項の追加のための改憲を阻止する運動を理論的・実践的に組織できるかというと、相当に厳しいのではないのかと考えている。まして、一連の自粛ムードの広がりのなかで社会運動自体が集会やデモ、イベントなどを次々に中止している状況下では。
もっとも今の安倍政権が世論を上手く誘導しながら改憲を果たせるかというと、これもなかなか厳しい面があるのは確かだ。なぜなら、①感染症対策への不満や批判が Twitter などの SNS を見れば分かるように噴出している②森友、加計、桜を見る会にまつわる醜聞がかなり人口に膾炙している③大衆受けを狙ったポピュリストとしての資質が安倍にはあまりない、少なくとも小泉純一郎や橋下徹、桜井誠、立花孝志のような分かりやすく敵を設定して人々を扇動するセンスを持ち合わせていない④感染症に伴う景気の急速な冷え込みが来るのは間違いなく恐慌も十分にありうるが、件のアベノミクス以上のことはやれそうにもない、を考慮すると、「挙国一致」ムードを演出しながら改憲にこぎつけるのは安倍政権には意外と難しいかもしれない。
加えて、昨年の天皇代替わりによって徳仁が天皇に即位したが、明仁と異なり、徳仁は天皇を中心とした国民統合の要として振舞う技術を明仁ほどには備えていないと思われるというのもある。明仁の場合は 3・11 の直後にビデオメッセージを出すなどして自身の即位以後に美智子と共に形成してきた「民主的で平和的な」天皇像を巧みに演出したが徳仁が同じようなことをするのは経験からしても厳しいだろう。したがって、左派が原則的でかつ巧みに運動を展開できれば改憲をめぐる攻防のヘゲモニーを向こうに渡さないことに成功する見込みはないわけではなく、情勢がますます危機的となるときに時と場合によっては大衆運動の高揚と共に反撃の余地もあるだろう。
むしろ私が考える左派にとっての最悪のシナリオは山本太郎とれいわ新選組が現政権のオルタナティブとして急速に支持を集めた上で「挙国一致」政権の要となる場合である。具体的には次のようなシナリオである。
①感染症が拡大を続け、医療体制の不備が露呈し、終息の兆しも見えないなかで、人々の不安と混乱がますます広がり、世論の矛先を患者個人やその個人が属する集団に向ける動きが各種媒体でなされ、それが個人の行動の規制を求める世論形成につながる
②十分な生活補償及び休業補償がないなかで景気が急速に悪化し、恐慌が到来する。それによって失業と貧困が急速に広がり、感染症対策と経済危機の打開のための強い政府を待望する世論が急速に形成され、「挙国一致」政権を求める声が各方面から出てくる
③東京オリンピックが結局中止に追い込まれ、中止の責任及び感染症対策及び経済恐慌への対応への世論の批判の高まりから安倍政権の命脈が尽きる
④衆議院選挙が行われ、自民・公明の与党は惨敗し、どの政党も過半数を取れない状況となる。最も注目を集めたのが山本太郎のれいわ新選組で MMT 理論に基づいた経済政策による失業と貧困からの人々の救済を訴えることである種の救世主的存在となる
⑤選挙後、政局の安定と感染症対策及び経済危機打開のための「挙国一致」内閣作りが協議され、山本太郎を首班とする形で自民党から共産党までの既成政党すべてが参加する政権が樹立される
⑥人々の生活の再建のための空前の財政出動が山本内閣によって実施され、それと併せて緊急事態条項追加のための改憲も行われる
※山本太郎が間違いなく安倍晋三よりもポピュリストとしての資質を備えていること、またこの人物が天皇主義者であると同時に大きな政府を志向していること、一時期は小沢一郎のような保守政治家とも近づけば、日共にも近づくという政治的動きを見せてきたこと、そして日共が野党共闘による政権参加を目指すなかで街頭での大衆行動よりも天皇制・自衛隊・米日安保体制を事実上容認し、現政権の補完勢力化していることを鑑みると、安倍政権が崩壊したときに自民党・公明党が与党にとどまるために手を組もうとすることはあり得る、というのがこのシナリオの前提である。
以上のシナリオが現実となったときに果たして既成の日本の左派は原則的な立場からの抵抗運動を作れるだろうか?先述したように今の左派の多くが改良主義化していること、反緊縮・リフレ理論が左派界隈で注目されていること、近年の社会運動自体に国民運動への志向が見られること、今の上皇明仁を安倍政権への重石として期待するような言説が左派の間でも流行していること、気候変動をめぐる議論に見られるように国家による市場への介入を現状の打開策として期待する向きがあること、などを踏まえると私が今ざっと素描したようなシナリオが現実化したときには左派運動はさまざまに分断され、原則的な立場から街頭で闘おうとする左派は極少数派になるのではないのかと考えられる。
ここまで述べてきたことを踏まえて見ると、今の日本のラディカルであることを目指す左派が直面する課題は危機の最中で政府の権限強化と社会主義的な政策を政権側が組み合わせてきたときにどうこれを理論的に論駁し、運動の四分五裂を回避しながら大衆を獲得していけるのか、ということである。この種の議論は第一次世界大戦当時のレーニンがカウツキーら、彼が社会帝国主義者・社会排外主義者と呼ぶところの潮流、あるいはワイマール共和国が崩壊する過程でのドイツ共産党が直面した問題とも通じる所だが、当時のレーニンやトロツキーの論をそのまま今反復しても現実の武器にはならないだろう。なぜなら議論の文脈となる時代がそもそも違うだけでなく、ロシアのボルシェヴィズムがもたらしたものは、今日的に見ると、社会主義建設というよりも、国家独占資本主義の一種であり、国家と市場の廃絶には至ることはなかった、という歴史的現実は否定できないからだ。
したがって、緊急事態条項発令を含めた強権発動による監視や弾圧が近い将来に起きたときに備えるには、運動の実践に関しては地下党建設の研究などが求められてくるが、地下に潜るにしても何をするにしてもそもそも労働者階級・被抑圧人民の生存と解放が国家と非和解であり、ラディカルな思想に基づいた運動の実践、革命が必要だという主張の基盤となる理論の構築が伴わなければどうにもならないだろう。現代における知見を可能なかぎり盛り込んだ国家論、革命論、党組織・運動論の構築が不可欠であり、現代における『国家と革命』、『何をなすべきか』を従来の理論と運動の総括の上で提出しなければならないのだ。一時的に社会運動が完全に後景に退かされても、現実に抗する理論的基盤を持つ運動の核さえあれば、この国が経済政策で完全に打つ手がなくなり、国家破産的な事態が来たときに革命派がヘゲモニーを握る可能性も出てくるだろう。今は長期的にかつ俯瞰的に現状及び情勢を分析したうえで闘いの基礎を作るときでもある。